賃貸借契約における保証金の償却(敷引き)の有効性について
建物賃貸借契約を結ぶ際、通常、賃貸人から敷金や保証金等の名目で賃料の数か月分の支払いを求められます。この敷金や保証金等は、一般的に退去時の損耗の修繕や未払賃料があった場合にそれらに充当されることになります。こうした敷金や保証金等については、これまで法律に特別の定めはありませんでしたが、令和2年の民法改正により、敷金について「いかなる名目によるかを問わず、賃料債務その他の賃貸借に基づいて生ずる賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務を担保する目的で、賃借人が賃貸人に交付する金銭をいう」と定義づけされました(民法622条の2)。そして、この敷金について、賃貸借が終了し、かつ、貸建物の返還をうけたときには、「賃貸人は賃借人に対し、受け取った敷金の額から賃貸借に基づいて生じた賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務の額を控除した残額を返還しなければならない」としました(同条)。また、同改正により原状回復についても定められ、通常損耗や経年劣化による損耗は賃借人の原状回復義務の対象とならないことも明記されました(民621条)。
そうすると、通常損耗等を借主に負担させ、修繕の内容、程度にかかわらず予め一定割合あるいは一定額を償却して返還しないという敷引きの特約自体が民法の規定に反するようにも思えます。もっとも、同法は強行規定ではないことから、当事者が契約時に敷引きについて十分理解した上で契約を締結した場合は、契約自体は有効といえます。つまり、民法の改正によっても、敷引きについては従前と同様の扱いになるといえます。
なお、民法改正前ですが、式引きの有効性が問題となった最高裁の判例があります(最判平成23年3月24日)。同裁判における賃借人側の主張は、通常損耗等に係る投下資本の減価の回収は,通常,減価償却費や修繕費等の必要経費分を賃料の中に含ませてその支払を受けることにより行われるものであるのに,賃料に加えて,賃借人に通常損耗等の補修費用を負担させる敷引特約は,賃借人に二重の負担を負わせる不合理な特約であって,信義則に反して消費者の利益を一方的に害するものであるから,消費者契約法10条により無効であるというものでした。この主張に対して、最高裁は、「居住用建物の賃貸借契約に付された敷引特約は,契約当事者間にその趣旨について別異に解すべき合意等のない限り,通常損耗等の補修費用を賃借人に負担させる趣旨を含むものというべきである。」として、居住用不動産における敷引きの性質を明らかにした上で、「賃借物件の損耗の発生は,賃貸借という契約の本質上当然に予定されているものであるから,賃借人は,特約のない限り,通常損耗等についての原状回復義務を負わず,その補修費用を負担する義務も負わない。そうすると,賃借人に通常損耗等の補修費用を負担させる趣旨を含む本件特約は,任意規定の適用による場合に比し,消費者である賃借人の義務を加重するものというべきである。」として、敷引特約が借主の負担を増やすものであること自体は認めました。もっとも、「賃貸借契約に敷引特約が付され,賃貸人が取得することになる金員(いわゆる敷引金)の額について契約書に明示されている場合には,賃借人は,賃料の額に加え,敷引金の額についても明確に認識した上で契約を締結するのであって,賃借人の負担については明確に合意されている。そして,通常損耗等の補修費用は,賃料にこれを含ませてその回収が図られているのが通常だとしても,これに充てるべき金員を敷引金として授受する旨の合意が成立している場合には,その反面において,上記補修費用が含まれないものとして賃料の額が合意されているとみるのが相当であって,敷引特約によって賃借人が上記補修費用を二重に負担するということはできない。また,上記補修費用に充てるために賃貸人が取得する金員を具体的な一定の額とすることは,通常損耗等の補修の要否やその費用の額をめぐる紛争を防止するといった観点から,あながち不合理なものとはいえず,敷引特約が信義則に反して賃借人の利益を一方的に害するものであると直ちにいうことはできない。もっとも,消費者契約である賃貸借契約においては,賃借人は,通常,自らが賃借する物件に生ずる通常損耗等の補修費用の額については十分な情報を有していない上,賃貸人との交渉によって敷引特約を排除することも困難であることからすると,敷引金の額が敷引特約の趣旨からみて高額に過ぎる場合には,賃貸人と賃借人との間に存する情報の質及び量並びに交渉力の格差を背景に,賃借人が一方的に不利益な負担を余儀なくされたものとみるべき場合が多いといえる。そうすると,消費者契約である居住用建物の賃貸借契約に付された敷引特約は,当該建物に生ずる通常損耗等の補修費用として通常想定される額,賃料の額,礼金等他の一時金の授受の有無及びその額等に照らし,敷引金の額が高額に過ぎると評価すべきものである場合には,当該賃料が近傍同種の建物の賃料相場に比して大幅に低額であるなど特段の事情のない限り,信義則に反して消費者である賃借人の利益を一方的に害するものであって,消費者契約法10条により無効となると解するのが相当である。」と敷引き特約の有効性についての判断基準を示しました。
そして、当該事案では、「本件特約は,契約締結から明渡しまでの経過年数に応じて18万円ないし34万円を本件保証金から控除するというものであって,本件敷引金の額が,契約の経過年数や本件建物の場所,専有面積等に照らし,本件建物に生ずる通常損耗等の補修費用として通常想定される額を大きく超えるものとまではいえない。また,本件契約における賃料は月額9万6000円であって,本件敷引金の額は,上記経過年数に応じて上記金額の2倍弱ないし3.5倍強にとどまっていることに加えて,上告人は,本件契約が更新される場合に1か月分の賃料相当額の更新料の支払義務を負うほかには,礼金等他の一時金を支払う義務を負っていない。そうすると,本件敷引金の額が高額に過ぎると評価することはできず,本件特約が消費者契約法10条により無効であるということはできない。」とし、本件における敷引特約は有効とした。なお、裁判官による反対意見があります。
本判決は、居住用不動産における敷引特約について判断したものですが、敷引きが賃料の3.5倍程度で無効とならないということであれば、無効となるのは余程悪質といえるような事案に限定されるものと思われます。
なお、最判平成17年12月16日は,建物の賃借人に通常損耗についての原状回復義務を負わせるのは,賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから,賃借人に同義務が認められるためには,少なくとも,賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているなど,その旨の特約が明確に合意されていることが必要であると判示しましたが、敷引特約は通常損耗等の補修費用に充てられる金額が明確となっていると理解でき、同判決と本判決は抵触しないものと考えられます。
(2021.4.11)